Papa's Spaghetti

パパのスパゲッティ

【文章を書くという肉体労働】自殺が最期じゃ悲しいよ

8月から本格的に文章を書き始めて、5か月が経った。

低く見積もっても、30万文字以上は書いてきた。

趣味で書いている小説を合わせれば、もっと書いてきた。

 そして、わかったことが一つある。

 

それは「文章を書くことはとてもフィジカルな営み」ということだ。

 

それに気づくキッカケとなったのは、去年の9月に数年前から病を患っていたおじいちゃんが亡くなったことだ。

もちろん、家族が死ぬのは悲しいことだ。けれど、「いつまでも亡くなった人を惜しんでいては僕の人生が終わってしまう」と自分に言い聞かせて、すぐに文章を書き始めた。

家族の死で受けた精神的ダメージは確かにあったが、文章を書くときは違う脳、違う心を使えば問題がない、と自分を騙しながら書くことにした。

 

しかし、それは間違っていたようだ。

 

突然、家へ帰える電車の中で突然とてもない疲労感が襲ってきた。

その疲労感は今までに感じたことがないもので、席から立つことができなかった。

最寄駅どころか、その路線の終着駅まで座りこんでいた。

そして、その瞬間から何をやってもつまらなくて、一日中強い孤独感と不安感に襲われ始めた。

 

 なぜそんなことが起こったのだろう?

今なら、なぜそんなことが起こったのかがハッキリと分かる。

 

もちろん、おじいちゃんの死は1つの要因というのは間違いない。

「人は死ぬ」ということを頭で理解していても、やはり誰かが死ぬと気分は落ちるし死への恐怖が膨れ上がる。

 

でも、今回の問題の根本はそこではない。

「文章を書くために"肉体"を意識しなかったこと」だ。

結局のところ、肉体を意識しないというのは「心」を意識していないことになる。

 

村上春樹のエッセイ集「職業としての小説家(新潮文庫」で書いてあるように

例えば、小説家だったら、意識の奥の方へ下の方へ自ら降りていかなければいけない。創作する方法は他にない。

作家を含め、モノをつくる多くの人が自殺で人生を終えるのはそのためだろう

意識の地下へ降りていき、あまりの暗さに地上に上がるロープが見えなくなってしまう。そして、絶望のあまり死を選ぶ。

 

現実世界で、死について語る行為も同じに思える。

戦争映画を観た後のあの感覚も。

普段は触れない何かに触れる。だから、心が真っ暗になり気分も底に沈んでしまう。

 

商業的な文章を書く時はどうだろうか。

確かに、これも小説と同じで、意識中を駆け回る。

けれども、小説ほどディープにいく必要はない。

しかし、疲れてしまうのはやはり形がないものから有るものへと変えていくからだろう。

0から1を作り上げる行為は想像よりも心を削る。すでに心が不安定なら崩れてしまうかもしれない、ジェンガのように。

 

では、地上と地下を行き来しながら文章を書き続けるにはどうすればいいのか

いま僕の中で出ている答えは「身体を鍛え上げること」だ。

意識のずっと奥から這い上がるために、心を守るために強靭な肉体が必要だ。

 

文章を書くためだけに、人生を終わらせる必要はない。少なくと僕には。

過去の物書きを見て、「あの人は自分を破滅的な人生に追い込んだからいいモノを書けた」と信じ真似をするのは間違っている。

そんなステレオタイプは振り払って、存分に健康を楽しもう。

ジムに通ってバーベルを挙げ、外を走ってうまい空気を吸おう。

心だけで対処するのではなく、肉体でも受け止めよう。

 

「幸福」は平等に与えらていない。だから、みな幸福を目指す。

「不安」は誰しもが持っている。お金持ちにはお金持ちがゆえの不安がある。

 

だから、最初から不安探しの旅に出る必要なんてさらさらない。

自分からロープを切る必要がないように。