読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ネットで誰でも有名になれるこの時代をどう生きる

エッセイ

「有名になりたい」

それは誰しもが一度は掻き立てられる「欲望」かもしれない。

 

しかし、有名になりたい願望をディープに掘っていけばいくほど

そこには何も存在していないことに気が付いてしまう。

有名になる必要性が見当たらない。

 

僕は随分と長い間、有名になって人に良い影響を与えたいと思っていた。

しかし、今振り返ってみると、かなりおかしい夢だ。

そもそも、有名にならなくても人に良い影響は与えられる。

また、自分自身を世の中に良い影響を与えらえる人格者と認めていたことになる。

 

結局、自分が可愛くて仕方がなかったということだ。

 

特に若者が"有名になりたい"という発するとき、それは「人に認めらたい」という承認欲求が隠れている。

 

しかし、人に認められるとはそんな簡単なことなのだろうか。

有名になれば、人は自分を認めてくれるのだろうか。

有名になれば承認欲という欲望が満タンに満たされるのか。

 

そう問えば問うほど、有名になりたいというのはあまりに空想だということに気がつく。

 

「苦しまない練習」という小学館から出版されている本がある。著者は小池龍之介という僧侶で、作家としても数多くの書籍を出している方だ。

「苦しまない練習」の『脳の幻覚を見破る』という章の書き出しを引用しようと思う。

 

 もしも君が、ひどい皮膚病で身体が傷つきただれ、蛆虫(うじむし)に食われているとしてみよう。君があまりの痒さに爪で肌を引っかけば、「気持ちい」と感じるだろう。燃える木片を患部に当てたらなら、「あー、痒さがまぎれて楽だ」と錯覚するだろう。

 

 君の皮膚病ゆえに感覚のアンテナが狂って、触れたら本当は苦しいはずの火に対してさえ、「気持ち良い」という錯覚を得る。君よ、それに似て、私たちの心の中にある欲望の火は触れたら本来は苦しいもの。

 

 それなのに君は欲望を離れず、欲望の火災によって焼かれているのに、「痒さが紛れて気持ちい」と脳に騙されている。君の感覚のアンテナが狂っているせいで、触れたら本当は苦しいはずの欲望に対してさえ、「気持ち良い」という錯覚をしている。(中部経典『マーガンディーヤ経)

 

 

そもそも、なぜ僕がこんな記事を書いているか。

 

それはインターネットが発達した今の時代、誰でも有名になることができるとふと思ったからだ。

その一例が「ブログ」だと思う。

 

僕は去年の初めあたりにブログで有名になろうと試みたことがある。

適当で、どうでもいい記事を約5か月間投稿し、総記事は40くらいだったかな。

結局、目標には到底たどり着くことができず、志半ばで飽きてやめた。

しかし、そんなブログでも、月のアクセスが4か月目で15,000に昇った。

 

適当に書いて見直しも訂正もしていない記事がその月だけで、15,000回見られた。

その時は高揚感に包まれたが、今考えてみるとかなりぞっとしてしまう。

なぜなら、当時書いた記事は人に認められたいという欲望のまま書いていたからだ。

思ってもない、感じてもない、体験してもないことを誇張して書いていた。

インターネット独特の軽さに身を任せていた。

「ありのまま」ではなく「つくられた在り様」を晒すことに慣れるようになった。

 

 

人生はそう長くない。

だから「モノをつくる人は多くの作品を世に出し、有名になれるチャンスを掴むべきだ。たとえそれが駄作だと思っても世の中に出してみなければわからない」という意見も間違ってはいないと思う。

しかし、人に認められたい一心での作品や行動は世の中の流れに自然と同調していくだろう。

もちろん、世の中の流れを無視して、自分が思い描くありのままを目指すスタイルでは有名になれる可能性はあまりにも未知数だ。

有名になるには、世の中の需要に応えたえず供給しなければいけない。

 

でも、もし有名になるという欲望を捨てればどうだろう。

淡々と自分が感じるものを表現していけば。

財布を札で埋めることはできないかもしれないが、心の隙間は今よりも埋めることができるかもしれない。

 

自分の心が本当に感じていることをただ言語化したい。

それが僕がこのブログを開設した理由かもしれない。

まだ承認欲が乾ききっていないね、と言われるとぐうの音もでない。