意味のある時代に意味ない行動してみる

「ことばには、手を触れることができません。それをこわすこともできません。何か限りなく茫然とした意味の砂漠をさまよい、そこに自分という実体を探しあぐねて疲れてしまう----そんな徒労の感じに襲われることもあるのです」

昨日寝る直前に読んでいた谷川俊太郎著「詩を書く なぜ私は詩をつくるかに書かれていた言葉。

何だか、文章を書いた後のあの壮絶な疲労感を表す表現を探していたので、思わずベッドから飛び起き、線を引いてしまった。

 

文章を書くことは疲れる。

多分、自分に才能がないからだろうか。もしくは、文章関係なく今の生活に疲労感を感じているだけなのかは正直わからない。

もしかしたら、少し本を読みすぎているような気もしてしまう。最近は、暇さえあればブックオフか本屋に行って面白そうな本を探しているし、すぐ買ってしまう。

暇さえあれば、と書いたが、基本的に一日中暇なため毎日行っているような。

人が書いたものを読んでいると、自然と自分で文章を作りたくなってしまう。

だから、最近はほぼ毎日文章を書いていることになる。

本能に突き動かされて書くときもあれば、言葉を見るのが嫌に感じながら無理やり机の前に座る。

 

ちなみに、言葉を見るのが嫌に感じながら今この記事を書いているところだ。

言葉が嫌に感じる時には、無駄なストレスを省いて自分の心だけを参考にして書くことしかできない。下調べが必要な記事なんて書けないから、参考文献はこの身体で受け止めたもの以外ない。

 

何を伝えたいのか。

どんな順序で書くのか。

どうすれば人に読んでもらえるのか。

 

もちろん、そのようなことは考えずに降ってきた文字をただ並べる。

ラッパーが音の上でフリーに言葉を並べるのと、たぶん似ている。

フリースタイルラップならぬ、「フリースタイルライティング」

いかに、ストレスを感じず、軽く言葉を発するかが重要だ。

 

そもそも今はとても"意味がある"時代に生きている、と思う。

人もまた意味を求めすぎている。

しかし、ピュアに意味を求めているわけではない。

意味を追うことに価値があるという教育が幅を利かせて、意味を追うことをやめた瞬間にとてつもない不安が襲ってくるから、人は物事に意味をつける。

勤勉主義。得をするのは誰だろうか。

やはり、その根底には"なぜ生まれて死ぬのかがわからない"という出口のない迷路があるからだろうか。

 

意味を求める姿勢は「ありのまま」を失う。

おかしな形の雲を空に見つけたら地震雲だと大騒ぎして、自分から不安の部屋へと追い込む。ただ青い空に面白い形の雲が浮かんでいるだけなのに。

高校を出ていないに等しく、理系の科目をまともに学んだことはない僕が言えるはずはないが、科学は物事に意味をつけるためにある。そう感じる。

「ありのまま」というのは仏教に基づいている。つまり、「宗教」的な考えかもしれない。だから、科学と宗教は対立して、統合することはどうしても難しい。

 

でも、世間は「ありのまま観ること」の重要性に気がつき始めて、書店にも仏教に基づき書かれた自己啓発本が多く並んでいる。

そして、僕もその流れに疑問なく乗っかった一人だ。

 

意味を追求する時代に生きるのは疲れる。

一言で今の日本を表現するなら「重い」

ある意味、軽そうに生きている大学生はこの時代の行き方を熟知しているのではないか。

そう思いながら、フリースタイルライティングをやめにしよう。