自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ

“とても感受性が強く、人のことが考えられるユウマくん”

小学6年間で幾度となく貰う成績表には、いつもそう書いてあった。

そして、最後の一文はいつも“もうすこし勉強を頑張ってみましょうね”

しかし、親は「感受性が強い」という文章を読んで大変喜んでいたことを今でも覚えている。

そんな僕も

大人になるにつれて「感受性」が評価されなくなってくると感じるようになった。

感受性より、何より形に見える数字がすべて

だから、強い感受性を持つものも物質的な世界へと苦しみながら入っていく。

 

自分の感受性の高さに絶望し、「鈍感さ」の獲得を目指す。

鈍感になることがこの殺伐とした世界を生きる唯一の道。

 

そんな風に、いつの間に武器だった感受性が重荷になっていく。

 

類は友を呼び、僕の周りには強い感受性に悩むひとが多い。

特徴的なのは僕が書いているように、みな自分の感受性の強さが人生の足枷と思っていることだ。

 

しかし、本当にそうだろうか。

もし君から感受性の強さを取り除いたら、君は消える。

感受性が君を作り、支え、生命力を与えている下地だろう。

そして、感受性という下地が世の中からの攻撃を許しているのは誰か。

それは君だ。

 

つまり、君は自ら望んで「悲劇のヒロイン」を演じている。

僕をそう気が付かせたひとつの詩がある。

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

人のせいにはするな

みずから水をやり怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目のことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

「自分の感受性くらい」という詩集に書かれている茨木のり子のことば。

この詩にハッとさせられた君は、まだ鈍感をめざすのか。