Papa's Spaghetti

パパのスパゲッティ

「人生って楽しい」という瞬間だけ楽しいだけだな、人生なんて。

人生めんどくさい。

めんどくさいだけだったらまだ許せるが、痛くて辛いのは勘弁してくれ。

「安らかに眠るように亡くなりました」と形容するのは生きている者の主観であって、”何バカなこと言っているだよ、この野郎”と死んだ人たちは思っているはずだ。

これも僕の立派な主観である。

物事を客観的に考えるなんて無理だ。人間の目は前に2つしかついていないし、自分自身のことすらもよく分からないまま死んでいく。

メディアも主観的だ。政治なんてまさにそうだろう。結局は、国民の幸福ではなく自分の幸福を軸に、自分の合う政治家や政党を選んでいくしかない。

当たり前だが、それが選挙だ。人格を持っている限り、どんな思想も個人に回帰していくのではないか。

そもそも自分にとって何が幸福かがわからない。

しかし、政治は国民の幸福を実現するためにあるのだ。

もちろん国民ひとりひとりの幸福とは何ぞやなんて考えてたら、地球は先に滅びてしまう。

だから、「ごはんがおなか一杯に食べれて柔らかいベッドで寝ながら本が読めること」が幸福だとする。

だとしたら、その定義の上では、僕はもう十分幸福だから僕という範囲で政治はその目的を実現できいると言える。

しかし、「人は支えあって生きている」という言葉がある。

ひとはひとりでは生きていけない。

これは人生という不確実性の塊のなかで唯一「確実なもの」だと僕は思う。

そして、これを学ぶ場所が教育や仕事ではないだろうか。つまり社会というのか。

僕には学校で十分な教育を受けて育った実感はないが、まだ仕事というチャンスが残っているから精進していきたい。

ひとりになりたがっていた僕も、今では仕事で「社会」を感じていたいと思う。

誰かと一緒にいることは心地よいものではない。

「孤独は天才を育てる学校」という偉人の言葉があるように、孤独は必要だ。

しかし、ひとりでいることで違和感を感じないユートピアを人はいつかは見つけてしまう。

議論がない政治が何も生まないように、違和感がない人生からは何も生まれない。

言いたいことは、社会は違和感を与えてくれる場所ということだ。

違和感は精神的負担となるが、生命のエネルギーとして一役買っているのではないだろうか。

しかしなんだか、仕事が人間からだんだんと離れていっている気がしてしまう。

仕事は「自己保身」の道具に成り下がっている。

大学生の就職活動がそれを物語る。

スウェットにニット帽でまともに講義も受けてなかった学生がいきなりスーツで外に出るのは普通に考えて無理がある。根底にある恐怖心がエネルギーだ。

だから、すぐにやめる。そして、仕事が嫌いになってしまう。仕事が嫌いになれば必然的に生きることが辛くなってしまう。

ここまで流れで書いてきて、完全に着地地点を見失っている。

情緒というものを感じる感性がなくなって来ていると言いたかっただけだった。

「なんだかいいな」や「なんだかいやだな」と感じるとき、僕はそれを勝手に情緒だと言っている。情緒は深みだ。

小手先のテクニックやスキルで生きることが推奨される時代に

情緒なんて求めるからこんなに人生はめんどくさいのか。

しかし、人生めんどくさいって思ってる人は僕の他にも大勢いるから

どうってことはないだろう。